この国の未来を守るための戦略   吉田松陰

「自分が日本の国の存在を担わなければならない」という「明確なボランティア意識」に燃えた兵学者、つまり「国防問題の研究者」としての松陰が立てた国家戦略は「尊皇攘夷」です。しかし、当時の知識人階級の中には、松陰の説く「尊皇攘夷」という戦略を認めない人がいました。たとえば、朱子学者で長州の藩校・明倫館の元学頭であった山県大華は、松陰と次のような論争を繰り広げています。

松陰が「古事記」「日本書紀」を持ち出して日本の国体(独自な国のあり方)を協調するのに対して、大華はそんな日本中心の考えは不合理だ、もっと国際的視野(つまり朱子学的な中華中心の世界観に基づく中国中心史観)に立った「普遍的な考え方」をすべきだ、としてそれを退けます。また、松陰が時の幕府が西洋列強の武力に屈したかたちで開国を進めていることを嘆くのに対して、大華はそうした西洋のやり方は無礼だが、日本側に対抗できる手段がない以上、深く怒るべきではなく、「許容するより仕方があるまい」と、無責任にもいってのけたのです。

このような退嬰的な現実追認の姿勢を続けていれば、その後の日本は間違いなく植民地となっていたでしょう。松陰もこの大華に対して「怯懦極まれり」と評しています。そもそも松陰にしても、日本が現状において西洋に武力で対抗できる、などとは考えていたわけではありません。彼はそのことを認めた上で、最終的に彼が達した結論は、この国の未来を守るために、松陰は、既存の社会の枠組みにとらわれない若者たちを集めて「教育」し、彼ら少数の自覚的分子が「決死の行動」を起こすことにより(これを「草莽崛起」といいます)必ずや広範な人々がともに立ち上がり、新しい時代を迎えることができるはずだと信じたのです。

「西洋のモノではなく、日本人のこころにこの国の未来を託す。そのためには、若者の教育しかない」そして安政四年(1857)、ここに「松下村塾」が誕生しました。

日本人と知っておきたい近代史  中西輝政著より

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